Voice to survive







 野を切り裂く遠吠えが森閑の夜を消し去った。

「……怒らないでおくれよ」

 目深に被ったフードの頭上に仄白い月明かりを浴びながら、蛻の殻となった家に向かって散歩風情の男が独りごちる。その声は誰に遮られることもなく空に吸い取られ、代わりに残ったのは閑寂な冬の朧月夜だった。
 ザクザク、と雪を踏み固めながら歩く道なき道。降り積もった雪に埋もれるスノーブーツは爪先から冷気が染み込んで男の体温を奪っていく。吐く息は白い湯気のように浮かび、どこまでも続く白雪に男の身体ごと融け込ませて隠してしまう。
 人無き集落に紛れ込ませた隠れ家に移り住んで二度目の冬だった。渓谷ごとに点在する集落は雪が降り始めると静けさが増して、しんしんと降り続ける白い氷に呑まれるまではあっという間だ。
 隠れ家の前に広がる傾斜の緩やかな渓谷を徒歩で通り過ぎると、男が目指していた森の入り口が見えてくる。そこからは傾斜のきつい山道になっていた。
 散歩の域を遥かに超える冬山の登山は、軽装備で挑むには自殺行為でしかないが、無い装備を嫉むくらいなら苛酷な環境に自ら慣れてしまえば良いだけのこと。時々歩みを緩め、男は薄くなる空気に身体を少しずつ適応させながら、周囲を見渡して声のする方向を探った。
 しばらくして、まるで男の姿に反応するかのように、遠くからもう一度、いや、もう何度目かの透き通るような声で、アォーンと野を切り裂く吠える声が返ってきた。
 静寂な夜に響き渡る気高い遠吠えはひと山を越え、地上の集落にまで届いてしまいそうで。執拗い咆哮はそれだけで周囲に存在を知らしめるものであり、その声は確かに異変を報せようとするものだった。
 その声を頼りに深い森の道なき道を進む男――槙島聖護に、あまり感じたことのない胸騒ぎが生じる。

(嫌な感じだ……)

 静かなはずの森がざわついていた。風も吹かぬ夜に木々がさざめき、その影に隠れる警戒心の強いオオスズメフクロウがギョロリと目を丸くして侵入者である槙島をただジッと見つめてくる。


 友人である狼が異様な吠え方をしていることに槙島が気付いたのは、月が天中を跨いだ夜更け過ぎのことだった。
 自ら望んで監視者の傍で生きていくことを選んだ槙島だったが、いつしか主の帰りを待つという立場の逆転した日々に変化していった。その為、槙島はすっかり自由の身となり、監視者不在の隠れ家で寝食に困ることもなく暮らしてきた。
 そんな平凡で退屈な日々の中で槙島が得られる唯一の楽しみは、他でもない監視者である狡噛慎也が魅せる魂の輝きを間近で見つめることだった。彼が放つ輝きは何物にも代え難いものであり、その狡噛たらしめる本質こそが槙島にはとても魅力的に思えた。
 槙島が狡噛と出逢ってから今日に至るまで、その輝きはしっかりと槙島の手中に収められてきたはずだった。
 そう、今夜までは確かにそうだった。狡噛は、また帰ってこなくなった。

 ――僕との再戦も果たさずに、彼はひとりで世界を相手に戦い続けている。

 狡噛は槙島の一番近くで鈍い光になったり一際強く耀いたりと忙しなく色めいた。この暗澹とした空が覆う壊れた世界のように、彼が見出す一筋の希望の光さえ世界の闇の前では為す術がない。
 今度こそ、狡噛は死に目に遭うかもしれない。世界の終わる音が――聞こえる。

「狡噛……」

 広くはないベッドを占有して眠っていた槙島を現実に引き戻した狼の呼び声に、槙島は初めて言い表しようのない焦燥の存在を知った。
 遠くから聞こえてくるその声には、いくつかのパターンがあった。例えば、ひと鳴きの長さや回数で意味が変わってくると言うように、その報せは言わば、槙島と狼の間に結ばれた秘密のサインでもあったのだ。
 耳を澄ませば遠くだがよく響くその美しい声は、山小屋のような人間の住処で動物のように暮らす狡噛慎也に連れられる形で、その彼と共に暮らしてきた槙島の耳にまでしっかりと届けられた。
 それでなくとも普段から夜は静かだ。森は既に獣の領域と化しており、破壊しようとする人間の姿は何処にもない。
 警戒心の強い獣たちが何処からともなく現れ、夜の帳へ次々と消えてしまう中で、月は照らす相手を見つけられず、木々の深緑頭を白上げてゆくばかりだ。
 人も介在しないこの深い森の奥で、ひっそりと数を減らしながらも、地獄にも似た天国に近すぎるこの森で生き延びてきた賢い獣だ。犬種の中でも賢く、躯体もしっかりしており、岩山や崖にすら駆ける脚は逞しく力強い。弱肉強食の世界で生きていくうちに自然と研がれた爪と牙は鋭く、噛まれれば一溜まりもないだろう。
 まだ数回しか会っていない狼と初めて出逢った時のことを、槙島は今でも鮮明に覚えている。地上を見渡せる一際高い丘で、背に月を抱えながら地上とこの森を監視するその姿は、さながら首輪のない猟犬で。
 槙島は、狼に似た男をひとり知っている。この広大な山の何処かにいるだろう男。数日前から見知った猟犬――狡噛慎也がこの広い野の何処かに放たれたままだった。
 もしかすると、こうして奇を衒っている可能性も少なからず残っていた。『出歩いてはいけない』と言う口約束を破らせるためだけに幼稚な罠を仕掛けるような男ではないものの、いい加減、この曖昧で奇妙な関係に終止符を打ちたいという点においては、少なからず槙島も同意を示しておく。
 獲物を追い詰めていくうちに獲物に似てくる狩人の話があるように、狩人に似てきた獲物――狡噛と出逢う前から獲物であった槙島が、再びその牙を向ければいいだけのこと。獲物も狩人もタイミングを見計らっているに過ぎなかった。そして、ふたりはもう何年もその機会を待ち続けていた。

「今夜は随分冷える」

 槙島はマフラー代わりのシュマグを持ち上げ、顔の半分を覆い隠すことで冷えきった外気から身体の深部がすぐに冷えてしまうことを避ける。防寒対策に煩い狡噛から学んだこの山で生き残る術の一つだ。
 吸い込んだ空気に喉の奥が寒さを訴えて震え始めると、鼻筋の横の隙間に指を差し入れ、少し下がったそれを持ち上げる。布を介すだけで呼吸をするのも不思議と楽になるもので、鼻や喉が厳寒のピリピリした空気にも耐えられるような気がしてきた。
 極寒の冬に耳や鼻、手足を外気に露出させたまま散歩をしてもろくな目に遭わないことは、随分前に槙島は経験済みだ。けれど本当は大地を占める雪の感触を直に感じられるほうが好みだった。
 そして、槙島には何よりもあの日の再戦を待つ相手がいる。狡噛と決着をつけたい勝負がある。だからこそ、こんなところで、世界に取り残された山奥で、先に死ぬ訳にはいかないのだ。


 果てが見えない森に踏み込んで見上げた上空は、月明かりを失った空という空が暗かった。槙島が見上げると、すぐ近くにまで厚い雲の代わりを果たす針葉樹林の葉が重なっており、頭上からずっしりとのし掛かられているみたいだ。
 当然、月明かりのない山間は暗い。市街地ではないこの場所はそもそも電気が通っていないため、明かりには火を用いる。人が暮らしていない集落を夜間に照らす必要もなく、村のあちこちに空の松明立てが虚しく突っ立っているだけだった。
 人払いされた集落は他にも幾つかあるが、システムによる淘汰ではなく、住民たちが彼ら自身の尊厳を守るために起こした行動による結果に過ぎない。槙島はそこに関心を置いている。
 槙島の手には顔の大きさ程度のランタンが一つあるだけで、LEDライトは用意してこなかった。遠くを見通せないデメリットはあるものの、本物の火の温かさがすぐ側にあって良かったと槙島は思う。
 槙島はこの夜陰に紛れる度、電気の偉大さを思い知る。そして、あの国の煌びやかな夜景を不意に思い出すのだ。眩すぎる人工的な輝きに覆い隠されてしまって見失いがちな、人がこの世に生まれたその瞬間から絶えず光り続けている本質という魂の輝きを槙島は改めて惟る。
 この亡国にさえ、シビュラシステムの手が忍び寄っていたことは隠しようのない事実だった。日本を代表する企業団が派遣され、治水事業を始めとするインフラ整備と近代化設備の建築に躍起だった。
 しかし、それらはあらゆる争いの火種を生んでしまった。
 この亡国には世界を隔絶しようとする旧い時代の名残が未だ根強く、インターネットが普及し始めた頃から国を挙げて近代化しようとする施策が走る一方で、伝統を重んじる保守派の反発はどう足掻こうとも避けられなかった。
 森を歩いていると、あちこちに紛争の名残を見つけられる。樹肌に残された戦闘痕や爆撃を受けて抉られた大地なんかもそうだった。山の斜面がクレーターのように大きく凹んでいるところもその名残の一部だ。
 それらを横目に槙島は通り過ぎていく。その道中、太い木の根が歪にうねり、その一部は地中から顔を出して槙島の行く手を阻んだ。
 槙島は遠回りをして迂回するか、それを登り超える他に進む道はなかったが、日本にいた頃から続けていたトレーニングは今でも欠かさず行っているので、これくらいの障害は苦でもなく、槙島は見えざる声に招かれるままどんどん森の奥へと進んでいく。
 月明かりを頼れない夜の山道には、こういった様々な危険が潜んでおり、一瞬たりとも気が抜けなかった。
 降り積もった雪の下に地雷が埋まっているかもしれないし、大事な森への侵入者を仕留めるための様々な罠が仕掛けられている可能性は十分にある。蔓でつくった原始的な罠により、木々の葉の裏側に隠された弓矢やボーガンが発射されるような仕掛けがあることも槙島は知っていた。
 だから、槙島は手持ちのランタンで足下と視界の先を注意して照らしながら進む。気が付けば、山の天辺が僅かに近くなっていた。
 かなりの距離を歩いてきたが、これまでの道は決して緩やかな道ではなく、傾斜の緩急が激しかった。流石に足の感覚が鈍り始め、凍えるくらい寒いはずなのにじんわりと汗が滲む。
 額を滑る汗を手袋の甲で拭い、疲労に任せて溜息を吐き出した。過敏になり始めた神経が視界の少し先の方角に黒い影を映し出す。

「――狡噛……」

 思わず名を零すと、槙島が見つめるその影は陽炎のように揺らめいて輪郭を浮かび上がらせる。身に堪える寒さが忘れていた孤独を引き連れ、手元の温かな炎が槙島に幻を連れてきた。
 槙島の脳裏には、自分以外の手によって負傷した狡噛の姿が浮かび上がっていた。

 ――果たしてあれは無事だろうか。

 これまでにも狡噛は、何度も同じような理由で深傷を負い、引き受ける必要のない犠牲を多く払ってきた。まるでそれが自分の宿命だと言わんばかりに、狡噛は面倒な問題に自ら首を突っ込んでばかりだった。
 金や命で解決できる問題が確かにこの世界には溢れている。しかし、そうやって片付けた問題が、いつまで経っても抜本的な解決には至らないことと同じように、机上の空論ですべてが解決できるのなら、世界は疾うの昔にユートピアへ生まれ変わり、シビュラシステムも国境や人種の垣根さえもがなくなっていたことだろう。
 果たしてここで起こっている問題は――狡噛がひとりで抱え込んでいる問題は、彼の命ひとつで解決できることなのだろうか。
 槙島は近い将来、その真偽を見極めなければならなかった。



          *



 森を抜けたその先で、それはずっと槙島の到着を待っていた。

「そうか……君だけだったか」

 標高が高くなるに連れて空気は薄くなり、少し足早に駆けただけで動物のように呼吸を浅く繰り返してしまう槙島が、残念そうに独り言ちる。
 淡い月の光が射し込んで浮かび上がった森の出口。木々で作られた天然のアーチの先に現われたのは切り立った崖だった。大きな一枚岩が爆発や地震などによって亀裂が生じ、それが長い年月を掛けて風雨で削れ、複数の岩でできた岸壁に変化した。
 覗き込めば深い谷底に落下してしまいそうな恐怖が広がるその手前で、四つ脚をしっかり大地に着けて槙島の到着を今か今かと待ち侘びていたその黒い塊は、槙島が探していたほうの犬ではなくて、槙島を呼び寄せたほうの凛々しい本物の猟犬だった。
 人間の手を借りずとも美しい艶のある毛並みはスチールグレイ。崖下に広がる闇と天上から射し込む月明かりを掛け合わせたような色をした体躯。
 正面からやって来た槙島の来訪理由を見極めようと、ジッと見つめる明眸からは微塵も老いを感じなかった。齢を重ねながらも野生に生きる肉体は強ささえ感じられるものらしい。
 視線で殺しそうな、刺すような眼差しを感じ取った槙島が微笑んだ。見られているという心地好さを感じる反面、狼の強い猜疑と警戒が槙島を突き刺す。

 槙島は口と鼻を覆っていたシュマグを下げて口元を見せると、ランタンを足下に置き、手袋も外して手のひらを空に晒した。
 そうして敵意がないこと槙島から示さなければ、これより先へは進めない。ここから先を進むには、狼やこの山の主から信用を得る必要があるからだ。
 槙島は、本当に武器のひとつさえ持ってこなかった。狡噛の手によって隠されている銃や特大剃刀の在処も知っていたけれど、槙島はこれまで通り、何も知らない振りをした。
 それなのに、槙島を試す風が吹いて、防寒のために被っていた狡噛の匂いが染み付いたダウンジャケットのフードを攫っていく。

 風に前髪が靡いて、槙島は目を細めた。世界の深淵を見続ける槙島の眼差しは、冷ややかな冬の空気よりも冷たく氷のようでありながら、深雪をも融かしうる熱量を放って感情を露わにさせている。
 ここでは、それをいとも簡単に見つけられてしまう。
 この森には、いや、この大地には、あまりにも多くの人の感情が渦巻き、そして地中深くまで浸透していた。今を生きる者も過去に死した者も、皆がこの山を魅入り、神聖なる神山に見守られて生きてきた。その多くが鎮魂するこの深山の風に乗って人々の魂はどこまでも運ばれ、やがて天に召されていくように、大量の旧いダルシンが昼夜はためき続ける。
 夜闇に染まった森は既に彼ら狼の縄張りであり、彼らが槙島を知っているからと言ってもそれは関係なかった。人間を信じられることも、人間が裏切ることも、狼を始めとするこの森に棲む動物たちはかなり前に学んでいる。
 何かの儀式のようにそう振る舞うことで槙島が森の猟犬から信用を勝ち得ると、槙島に向かって狼がクン、と鳴いて、彼はようやく槙島を受け入れる。

 手順を踏んでようやく近付くことを許された槙島は、フードを被り直してから狼の脚元まで近寄ると、目敏く気付いていた彼の汚れた鼻先に手を近づけた。怪我をしているようではなさそうだが、そこから何かがポタポタ滴っており、槙島は嫌な予感を否定する為にもそれを指で掬い、臭いと感触を確かめる。
 指の腹で掬ったそれを擦り合わせ、半乾きでねっとりした感触と独特の異臭が鼻を衝き、舐めずともそれが血液であることを悟る。
 鼻に残る血の臭い。嗅いで確かめた誰かの血は、動物ではなく確かに人間のもので、槙島にはそれが知った味のような気がしてならなかった。

 胸騒ぎがいよいよ嫌な予感にすり代わり、槙島から冷静さを奪っていく。
 彼の血が騒ぐのは、槙島が他者の悪意を敏感に感じ取れるせいでもあった。少し前まではそういう世界に身を置いていた。人の悪意を嗅ぎ分け、手段と方法を与えて犯罪を創造してきた。
 狡噛に殺されて生かされるその前までは、確かに槙島は他人の悪意を嗜んで生きていた。それが皮肉にも功を奏し、今ではその時の嗅覚が役に立っている。
 夜を切り裂いて勃発し、槙島を巻き込んだこの緊急事態は、槙島がここまでの道中で想定してきたこと以上に悪しき方向へ進んでいるようだった。
 事は一刻を争う事態かもしれない。森のざわめきが槙島の胸中にまで伝播してきて、槙島はそっと歯噛みする。

――狡噛が危ない。

 胸騒ぎを抱いて槙島は先を急ぐ。迷いも躊躇いもなく、槙島の決断は迅速だった。


「……さぁ、行こう」

 狼の頭部から背筋に向かって一度だけ撫でると、槙島は狼を促し、足元の雪に残る獣の足跡を辿るように再び歩み始めた。
 今度は十分に周囲を警戒して進む。雪を踏み締める音も地に落ちた小枝や葉を踏んで音を立てることのないよう慎重に進んだ。
 狡噛を負かすくらいには槙島も対人格闘術に自信があるとは言え、手練れのゲリラ集団を相手にひとりで迎撃できるのかと問われれば、流石に槙島も口籠もってしまう。
 死を恐れぬ者は一様に強者ではなくて無謀者なだけの可能性は大いにあるからだ。それこそ自死をも問わぬ輩も多い。凶暴すぎる正義は時に多くの無関係な人々を巻き込む結果を招きかねない。
 槙島に続くように遅れて歩き出した狼が、槙島の横を通り過ぎて先導し始める。
 彼が呼んでくれなかったら本当に手遅れだったかもしれないと思うと、種族が違っても、言葉を交わせなくても友情を築いておいて良かったと槙島は思う。ただ、野放しの猟犬――狡噛のほうにこそ本当は首輪が必要なのだろうとも槙島は考えていた。
 狡噛も槙島もそれぞれが互いの枷のような存在であることは明らかだ。互いの存在が生きる意味を形作ってきた。枷となるくらい重荷に感じるのならば、いっそ手放してしまえば良いものを、ふたりはそれができないまま今日まで過ごしてきた。
 その理由は、恐らく言い訳するみたいに色々挙げられるだろう。けれど、生きてみたくなった――と、そう思ってしまったことまで槙島は手放せそうになかった。

――この広い世界で、僕はもう少しだけ君と生きてみたい。



 少し進んだ崖の上にはゾンと呼ばれる建物がある。かつては寺院として栄え、地上と天空の狭間で人々を見守る神がいた場所だ。近寄り難い雰囲気が未だ残る神聖なそこは、崖沿いの岩場道を通らねば辿り着けない。険しい道だ。
 ゴロゴロと大きな岩が剥き出しの絶壁で、突風でも吹いたらきっと真っ逆さまに落ちてしまう。細く狭く、手すりやガイドもないその道の歩行はより注意が必要だった。
 幸いにして陽当たりが良く、森の中に比べれば遥かに積雪も少ないため、狭い道幅にさえ気を付けておけば、そこまで過酷な道でもない。
 本当に気を付けなければならないことと言えば、その先に聳えるゾンを根城にしている面倒な輩に見つかってしまうことだけだった。ゲリラや政府軍と言った何の立場にも属さない槙島には、一番厄介な相手でもある。

「――ッ」

 槙島にとって久しぶりに肌で感じる悪意だった。明確な敵意を向けられることが心地良く、その悪意の根源を見出してみたくなってしまう。
 槙島はつい考え事をしながら不慣れな道のりを急いだあまり足を取られ、ザッと音を立ててしまった。槙島の爪先が偶然に蹴った岩が欠けて小石となり、崖下の谷底へ落ちていく。
 パラパラと砂利の転がる音が静寂な夜に反響した。眼下の渓谷には槙島たちが暮らす集落とは別の集落があり、この辺りで起こる落石は死亡事故にも繋がりかねない。
 標高が高くなるにつれて、山肌の半分は大きな岩が剥き出しになっている。これまでの紛争で大小様々な衝撃を受けてきたことも重なって、地盤も弱くなってきているようだった。崖の先の窮屈なそこで存在感を示すゾンの荷重に、岩山がまだ耐えられていることが寧ろ奇跡なくらいだ。
 転がっていった小岩を追いかけるように、崖のギリギリ手前で立ち止まった狼が、槙島と転落していく小岩の両方を見た。槙島の瞳にも似ている狼眼の瞳孔が開いて、槙島に何かを訴える。下を見ろと強く唸る。

「まさか――そこにいるのか?」

 槙島も急いで駆け寄り、崖の下を覗き見た。途端に吹き上げる風。それを真正面から浴びて煽られた身体を支えようと、槙島は反射的に地面を踏み締めた。
 槙島に突き上がるのは焦燥。落下する時に感じる浮遊感とは別のそれが、彼に味わったことのない動揺を与える。

「――ッ」

 槙島が覗いたその先には、人ひとり分くらいが何とか居座れる程度のスペースがあった。距離にして二、三メートルほど降りた辺りだ。山肌から露出していた岩が何らかの理由によって綺麗に寸断されて生まれたらしい半月型の空間。
 そこに倒れ込んでいたのが黒い獣。槙島は、自分が見張られ、時に見張ってきたほうの猟犬であり、夜更けから探していた獣になれない男――狡噛とようやく再会を果たしたのだ。

「……狡噛…………」

 背を預け、身を隠すような体勢をとっている狡噛がぐったりと倒れ込んでいる。見るからに彼は邪悪な覇気を纏っていた。
 影の塊のような姿に変貌していた狡噛のあちこちが血に汚れ変色し、土いじりをした後に固まった機械油を塗りたくったような、揮発した油の饐えた臭いを放っている。戦地から帰ってきた帰還兵が瞳に虚を宿すように、どこか遠くを見つめている。
 焼けて腐敗し始めた生き物の臭いのような屍臭までもがあちこちから漂い、こうして守りたかったはずの自然が損なわれていく感覚を、槙島は初めて直に感じる。
 この山で感じる危険な香り。日本で犯罪に手を染めていた頃、槙島が近くで感じていたそれとは全く異なるものだった。もっと醜悪で、けれど、その信条は美しく、ただ現実だけがひどく乖離していた。
 鼻を突き刺してくる異臭に、槙島は咄嗟にシュマグで鼻と口を塞いだ。一体どんな目に遭えば、人ではない姿へ変貌えられてしまうのだろう。
 狡噛は、オリーブ色の戦闘服にデニム生地のシャツを中に一枚着た出掛けた時の着の身着のままだったけれど、首から提げていたドッグタグが一枚だけになっていた。
 狡噛慎也であることを示すそれを奪うことで、誰かの手によって彼は死んだ者とされたのだ。だが、まだ確かに狡噛は生きている。ギリギリのところだろう、と槙島は率直に思う。

「――……狡噛……」

 槙島は咄嗟に考えた。これが、狡噛の敵による罠だと言うことを。そして、罠だとすれば、果たしてその目的が何であるかを考える。
 こうなってしまった原因は複数ある。狡噛は先住民たち側の人間でありながら時にはゲリラのような行動も取ってきた。そして、狡噛は政府側の政策にも確かに支持していた。言わば、中立の立場を保ってきたつもりだった。
 治水事業のために水源を確保したい政府側の思惑と、神山を守りたい先住民たちの信条は非常に似通っているが、水源を欲する諸外国出身のゲリラの信念もまた、辿るところは同じだった。とどのつまり、彼らは皆、この山を守りたいのだ。皆が皆、この美しい深山を愛している。
 そこに、狡噛という外部の男が立ちはだかった。
 狡噛が中立の立場を重んじるばかりにそれぞれから怒りを買うこともあっただろう。狙われることだってあったはずだ。
 だから、狡噛はこんな目に遭ってしまうのだ。
 この傷が誰の手によるものなのかは、今の槙島には結論が出せない。狙われていたことは確かだろうし、狡噛が無駄な争いを止めようとしていたことは槙島も知っていた。だからと言って、その彼を痛めつける必要が何処にあるというのだろうか。

「……お前は、これが美しいというのか?」

 槙島は、天を刺す山巓を睨んだ。地上の争いを俯瞰する美山が隠し続けてきた穢れを、槙島は初めて目の当たりにした気分だ。かつての自分と重なるようで。自然と怒りが込み上げてくる。
 深く息を吐き出して、それから槙島は蹲る狡噛の一点をジッと見下ろすと、彼の様子を探った。狡噛の上に、別の狼が居座っていたのだ。餓えた獣に集られているのだと焦りを覚えたものの、すぐに杞憂に終わる。
 狡噛は身動きひとつしなかった。槙島の声さえ恐らくは届いていない。近くに槙島が居ても起きる気配がないし、そもそも彼はとても動ける状態ではない。
 このままでは腹を空かした本当の獣が一目散に駆けつけてくるだろう。屍肉を喰らうハゲワシがどこからともなく臭いを嗅ぎつけて飛んできてしまう。
 鳥葬という文化が未だ根強いこの地方では、死した魂は深山に吹き込む風に乗って天を翔けて転生するとされていた。かつてプラトンが肉体は魂の牢獄だと言い表したように、死した人の魂が抜けた身体はただの抜け殻でしかなく、それを他の命の糧として差し出すことで、人の魂は永遠にこの世を巡り続けるとされてきた。

 だが――この命は誰にも奪わせない。

 槙島はこれが悪意ある誰かの罠であろうと、それごとすべてを受けて立つ覚悟で、狡噛がぐったりしている目下の不安定な岩場まで降りていった。
 狼が頭上から槙島の動向を見守る中、半身で岩肌を滑るようにして衝撃を軽減させ、これ以上、狡噛の居る岩が山肌から崩落してしまわぬよう慎重に行動する。
 それでも最小限の衝撃は避けきれず、脆くなった山肌から欠けた小石がパラパラと地上に石の雨を降らせた。

「僕を生かしておいて先に死ぬなよ、狡噛……」

 槙島が狡噛の元に辿り着くと、真っ先に狡噛の口元に耳を寄せて呼気を確かめた。狡噛はこれだけ槙島が近づいても身動きひとつしないが、槙島はひとまず安堵する。
 狡噛は岩肌に背を預け、世界から断絶された異世界を見ていた。気を失っているだけのようだったが、出血の量が多く、それに体温がかなり奪われており、触れた身体が氷のように冷たくなっていた。

――お前はいつからここに居たんだ?

 槙島は狡噛を腕に抱え、着ていたジャケットの前を開けその中に埋めさせると、自分の体温を分け与えた。こんな時ばかり体温の低さが徒となる。
 優しく抱き締め、そして槙島は自らの手で狡噛の視界を遮った。ろくに光も取り込めないほどの傷を負った、世界を見続けてきた狡噛の瞳。右瞼が眉の上から深く切れており、これでは目を開けるのも困難だろう。
 槙島が推察するに、狡噛は爆撃や地雷の類いに遭遇してしまった可能性が高かった。素人でも手頃な材料で作製可能な爆弾が最近では主流になっていたと聞く。故に、人里周辺への危険を回避したい気持ちが強まるばかりに、身近な場所に設置されてしまうケースも多く、善意が生み出した悪意によって、無関係の人間が誤って被弾してしまう事故も度々起こっていた。
 狡噛がその被害に遭ったとは考え難いが、実際に狡噛は被弾しており、命からがらこの場所へ逃げ隠れたのだろう。
 そんな狡噛の命を繋いでくれたのは、紛れもなくこの二匹の狼の存在だった。


「……君たちは賢いね」

 狡噛の身体の上に寝そべって守ってくれていたほうの狼に向かって礼を込めて槙島が言った。「ありがとう」と付け加え、狡噛の上から退いた狼の頭を優しく撫でる。
 狡噛の側に寄り添う灰のように白い毛並みの狼は、槙島をここまで呼び寄せた狼の番だった。
 その美しい特異な体毛を狡噛の血で汚しながらも、肉に餓えた他の獣や冬の寒さから守ってくれていたのだ。彼女がこうして付き添ってくれていなかったら、狡噛はもっと早くに低体温症できっと命を落としていた。
 隠しきれていなかった槙島の動揺を落ち着かせようとしてくれているのか、白い狼は槙島の腕に自身の鼻先を擦り付けてくる。それに僅かに微笑しつつ、槙島は狡噛の応急処置に取りかかった。



「……至近距離で喰らったのか」

 項垂れる狡噛の額を押し上げ、頭部とこめかみの傷痕をランタンの薄明の下に晒す。橙色の炎が狡噛の顔に滲んで浮かぶ。こうしてやっと彼は人並みの顔色に戻る。
 槙島は噛んで脱いだ手袋を口に咥えたまま、狡噛の額にできた散弾銃のような武器による極粒の破片で裂傷を負った形跡が目立つそこを指の腹で押さえつけた。ひとまず止血する必要がある。



その時だ――。

「く――ッ!」

 槙島が額に触れた瞬間、殺気立った狡噛の腕が槙島の胸倉を掴んできた。骨ごと折る勢いで下から気道を押さえつけてくる。それは的確な一撃。

「狡噛……!」

 槙島が後方へ蹌踉けてしまう。重心が後ろへ倒れ、咄嗟に左手で自重を支えた。
 状況を見失っている狡噛に覆い被さられた槙島は崖下に転落してしまわぬよう必死に持ち堪えるしか術がない。このままではふたり諸共転落しかねなかった。
 ふたりが今居る空間は大きな動きが出来るほど広くはないのだ。下手をすれば共に谷底へ落下する危険が伴う。槙島の後方に地面はもうない。多少の動きにも弱い山肌から岩の欠片が渓谷の底へ再び転がり落ちていく。
 槙島は狡噛の手から逃れるように首を反らして天を見た。闇を照らす夜の王を恨む。その先に現われた死を喰らう魔物を、槙島は初めて憎んだ。
 狡噛の顔さえ見えなければ、この場所でなければ、この手で狡噛の感情を無理矢理塞ぐことだってできるのに、今の槙島にはそれが出来ない。
 槙島は、狡噛を助けたい。その一心で槙島はこの山奥深くまでやって来たのだ。

「……悪く思わないでおくれよ」

 そう小さく零し、槙島は狡噛の手首を掴んで捻り上げる。ほとんど意識を失くし、朦朧としていた彼が的確な反撃に出られる訳もなく、槙島は狡噛を下から持ち上げるように蹴り上げて背後の岩壁に押しつけると、天へ飛んでいこうとする彼の魂ごと口付けた。

「――ッん、ぅ」

 口付けたことにより狡噛の呼吸が更に細くなる。元より息絶え絶えの狡噛に、槙島は吸い込んだ空気を意図的に狡噛の咥内へ吹き込んだのだ。

「ぐ…ぅ――っ」

 流入する他人の呼気に噎せ返る狡噛の隙を見て、血の味が広がる口腔に槙島は眉を顰めつつ、狡噛をおとなしくさせようと試みる。舌に残る血に吸い付き、時にそれを舐め取っていく槙島。
 いつしか慣れてしまった情を移すこの行為によって、槙島の記憶が勝手に過去を掘り返していく中で、槙島は狡噛へ抱く感情を改めて思い知らされる。




――なあ、どうして君は僕を生かしたんだ――?


 あの日、あの麦畑が見下ろせる丘で狡噛が下した決断を槙島は恨む。こんな馬鹿げた想いに気付く前に――僕は君に殺されたかった。

「は――な…せ、っ……」

 曖昧な意識の中で塞がれた唇を嫌がって顔を顰める狡噛だったが、彼にはもう抵抗する気力も残っていなかった。
 呼吸だけでなく、額や頬、耳の上の側頭部にできた疵口を塞いで止血しようとする槙島の腕を力無く払い除ける狡噛が、ろくに見えない視界にぼんやりと浮かび上がる白い影を虚ろに見つめる。
 狡噛にはそれが、もう随分と連れ添ってきてしまったこの世で一番憎かった男の姿なのか、この夜、ついに現われた天からの迎えの者なのかさえも曖昧だった。

「……ク、ソ…っ――」

 再び意識が朦朧とし始め、狡噛はガクン、と項垂れる。再び気を失った狡噛が必死に現実を見ようとするから、白目を向いたその瞳を槙島は手のひらで隠して瞼を下ろさせた。
 この安全な手段で気絶させるという矛盾した行為が、槙島にとっては優しさの伴った行動だった。頸椎に打撃を加えるか、気道を絞めて気絶させるようなもっと簡単で乱暴な手段も槙島には選べたが、それを選ばなかった。
 槙島は狡噛を横たわらせると、背負ってきたリュックから救急道具を取り出して、いよいよ本格的な手当てを開始する。不慣れなことは多いがやるしかない。
 この国は昔から多国との流通が盛んではなく、加えてとても贅沢を言える環境ではなかったが、狡噛の立場に肖って融通してもらった物資を最低限でも揃えられたのは何よりも救いだった。

 日本では一般的になった高機能医療キットでもあれば、救命知識に明るくなくとも応急措置をサポートしてくれるが、世界を捨てたこの亡国ではそうはいかない。
 横たわらせた狡噛にまず行うべきは止血で、次いで輸血だった。篝火の下でも狡噛の顔色が蒼白であることは鮮明で、死相が見えるというのは、きっとこういう状態を指すのだろう。槙島が感じ取った邪悪な覇気とはまさにこれのことを指していた。
 もみあげやシュマグの布で隠されてよく見えなかったが、ランタンでじっくり照らしてみると、狡噛は側頭部からも多量の出血をしていた。
 垂れる赤い滴を辿って出血箇所を探る槙島の指に伝う鮮血が手首のほうにまで垂れ、槙島の袖口を紅く汚す。爆破の衝撃に吹き飛ばされた身体をどこかに強く打ちつけてしまったせいだろうか。狡噛のことだからその身を挺して誰かを守ろうとしたのかもしれない。
 それでなくとも、狡噛は腕や肋骨の骨折が顕著で、隆起した筋肉が更に歪な形に盛り上がっていた。骨を元の位置に整形して固定する必要があるが、三角巾も添え木も今はどちらもここにはない。
 だが、治療プランには優先順位がある。骨折のことは後で考えるとして、槙島は大判のガーゼを口に咥えて適度な大きさに引き千切り、ひとまず止血を優先する。耳介のすぐ上の辺りにも深い裂傷が見受けられたので、そこに千切ったそれを押し当てた。

「……ウ…っ…、」

 直接疵口に当てたので痛むのだろう。狡噛が小さく唸る度、側で寄り添っていた狼が狡噛のほうを心配そうに見つめていた。
 槙島と合流してからの狼はひたすらに物静かで、特にこの白い狼は狡噛の身からべったりと離れなかった。動物の体温が高いことと、こんな環境下でも質の良い毛並みを維持する天然の毛布が狡噛に温もりを分け与え続けてくれているのは救いだ。
 ふと頭上を見上げれば、崖の上で進んで見張りを務めるもう一匹の狼の存在があって、槙島は更に心強くなった。気配を潜め、闇に紛れるその躯体がときどき月夜に浮かび上がって存在を勇に示す。
 月明かりがなければ、彼の姿などすぐに見失ってしまうことだろう。だから、その身にわざと泥を塗り、地に紛れることで身を隠す。空気の読める子だとは思っていたが、本当に賢い動物だ。

 槙島は、ここへ近づく者への警戒は友人の狼に任せ、目の前の手当てに専念する。寧ろ、それを出来るのは今ここには槙島しか居ないことも狼はきっと理解っているのだ。
 寒空の下で感じるのは心細さよりも、四方八方を警戒しながら他者の命を預かることへの懼れ。
 他人の命をこんな風に感じることがこれまでになかった槙島は、己の細微な変化をつくづく狡噛によって思い知らされてばかりだ。
 槙島は狡噛の心臓に近い部分から手足の先まで、目視確認をし、それぞれの傷に止血と出来る範囲の消毒を施していった。これで多少なりとも落ち着くと良いのだが、衛生環境が十分とは言えない為、破傷風などへの罹患も懸念材料の一つとして残る。
 暗がりの中での判断は危険が伴うが仕方ない。それに血を流し過ぎた狡噛に輸血が必要なことは誰の目で見ても明らかだった。

 槙島に迷っている時間はなかった。状況が、性急な判断を求めている。
 槙島は、狡噛の胸元で光るドッグタグに目をやった。認識票とも呼ばれるそれには個人を特定する為に必要な情報が刻印されているのが一般的で、狡噛のそれにも違わず氏名と性別と血液型が刻印されていた。

――つくづく運の良い男だな、君は……。

 槙島はドッグタグに刻まれて浮かび上がる『B』を指でなぞった。それは狡噛の血液型を示す文字であり、狡噛にはきっと絶望を示すものでもある。
 槙島は採血用の針とチューブを急いで取り出した。針と一緒に小さく折りたたまれた血液パックは必要ないので仕舞っておくと、アルコール消毒の代わりに、針の先端をランタンの火で炙って消毒を果たした。
 これまでに自己採血をしたことは一度もないが、必要に迫られている今、迷っている時間はすべてロスタイム。槙島の手にもう躊躇いはなかった。
 槙島が試そうとしていることは、槙島自身から採血した血液を狡噛へ輸血して循環させることだった。一本のチューブの両端に針を接続させ、輸血バイパスを生成する。
 奇しくも槙島の血液型は『O』であり、レシピエントとなる狡噛は『B』だ。本当ならば細かな適合検査が必要になるが、そんな悠長なことは言っていられない。輸血が可能であるなら、決断するにはそれで十分だった。

 槙島は先に狡噛の腕に針を刺す準備をした。無駄に鍛えた筋肉のお陰で肘正中皮静脈も太く、素人でも血管を探すのに苦労しない。
 そして、もう一方の挿し口となる槙島も採血の準備を淡々と進める。この極寒の中でコートを脱ぐ訳にはいかないため、槙島は利き腕ではないほうの肘から手を下に向けさせて血管を浮き上がらせる。そして、狡噛ほどではないが、一番太く浮かび上がってきた血管に目がけてチューブを繋げた針を刺した。

「動かないでくれよ……」

 血流の勢いのまま槙島の血が支流となるチューブのほうにも流れていく。空洞だった透明のそれが赤い疑似血管に変化し、そして、いよいよ溢れ出るその前に狡噛の肘裏にも反対側の針を刺した。
 ふたりの身体を繋ぐチューブが、この命を左右すると言っても過言ではなかった。点滴針より体内へ流れ出る血液の生暖かさが狡噛に体温となって返ってくる。
 この薄暗がりの中でも、狡噛に色が戻っていくのがわかった。槙島は右手で自分のほうの針を、針の刺さった左手で狡噛の針が抜けないよう押さえ、狡噛の回復を待った。





 やがて、槙島の手当ての甲斐もあって、狡噛のしぶとい命が声を張り上げる。


「……っ、…き…、ま……」

 僅かながら体温も回復してきたようだった。狡噛の唇の色も少しだけ正常に近づき、槙島はひとまず安堵する。このまま持ち堪えてくれれば良いのだが、果たして本当に持つかどうかは運任せだ。
 少しでも早くここから移動しなければならない。不安定な岩場にいる危険もあるが、この崖の先に建つゾンからは丁度この岩陰が死角になっているとは言え、狡噛の命を狙う敵はゲリラたちだけではないのだ。

「……道理で静かな訳だ」

 狡噛が内耳からも出血していることに槙島は遅れて気が付いた。爆発の圧に鼓膜が破けたのだろう。世界中の声を聞いてしまう狡噛の耳が、今はすべてを遮断していた。

「僕の声も聞こえていないんだな」

 耳元で囁いてみてもかかる吐息がこそばゆいだけで、それ以外に狡噛を刺激する感覚は乏しかった。
 生暖かい吐息に気が付いた狡噛がうっすらと眼を開き、槙島の顔を見る。唇の動きを読んで聴覚を補おうとしているようだった。
 狡噛は高周波の耳鳴りが鳴り止まず、自分の生きている音がトクントクン、とゆっくりと篭ったように聞こえるばかりで、疲弊しきった精神がこのまま世界を遮断しようとしているのだったらどれほど良かったことだろう。
 槙島の口元を目で追って言葉を読もうとするその視線が、槙島には煩わしかった。

――声が、言葉が聞きたいのに。

「……黙、れ」

 槙島にはもう聞き慣れた文句を言うだけで、狡噛は疲れて再び目を閉じてしまった。現実を意図的に塞ぎ、槙島がここに居る理由も、こんな情けない負傷を負った原因も、今は考えないように狡噛は世界を遮る。
 狡噛はこんな時でも煙草を吸おうとボロボロに焼け焦げた服のポケットをまさぐっていた。呼吸もろくにできない癖に、精神を落ち着かせるため、それとも槙島の前で弱体を晒している現状を誤魔化すため、狡噛には沈黙を喫煙で代替する。

「……流石だとしか言いようがないな」

 狡噛の意図に気づいた槙島も同じポケットに手を差し入れて、狡噛から煙草を取り上げた。直ぐさま「チッ」と舌打ちが聞こえてくるといよいよ槙島は苦笑を零す。

「今日は特別だからね」
「……ッ、な――……」

 ランタンで火を点けた煙草。持ってきていた最後の一箱。スピネルだけでなく煙草の流通量は極僅かで、これまでに通ってきた村や集落で世話になった人たちがあらゆる手段を講じて狡噛の手元に届くように努力してくれていたそれ。
 ヘビースモーカーと暮らしてきたお陰ですっかり慣れてしまった煙草の味が、槙島の口の中にじんわり広がる。美味い料理から漂う香りとは違う、喉の粘膜を焼くような熱さが纏わり付く。それと同時に、嗅ぎ慣れた匂いに槙島の気が緩む。

「――………」

 槙島は吸い込んだ紫煙を、狡噛の鼻を塞いで口付けて吹き込んだ。
 フーッと細く吐き出された煙。咥内で行き場を無くしたそれを狡噛は何とか吸い込んで肺を満たす。狡噛は目を細めて次を待った。まるで、口付けを待つような顔。ひな鳥が母鳥からの給餌を待っているかのようで。

「君には、きっと――」

 そこまで口にしてから狡噛が難聴中であることを思い出し、槙島は言葉を飲んで続行する。重なった唇が煙草と血と狡噛の味に満たされていく。

「言葉まで喪ったら、いよいよ本当に獣と変わりない」

 獲物を狩る獣。自らを傭兵と名乗り、しかし、金品を対価にすることもなく、独自の正義感によって紛争の仲裁に入る。
 それが、狡噛が自らに課した成すべきことだと言う。そして、訳ありの男がふたり、遠路遙々辿り着いたこの地での滞在を受け入れてくれた地元民たちへの恩義からなる行為、狡噛はこれまでに受けた恩を返すべく、その身を呈し続けている。
 本当は、誰かに止めて欲しいのかもしれない。帰ってこいと言われたいのかもしれない。母が子を無限に愛するように。己の成すべきことが、本当は目の前にあることを思い出させてほしいのかもしれない。

「……僕で残念だったね」

 皮肉を零して、槙島は吸いさしを地面に押しつける。ジュッと火種が死んで、吸い殻になったそれは証拠になり得るため、ポケットに突っ込んで隠す。
 狡噛の視線が槙島に纏わり付いて離れない。何かをブツブツ言っていることには気が付いていた狡噛が、それを把握しようとするから、槙島は居心地悪そうに狡噛の視界を再び覆って世界を隠した。

「……さあ帰ろう、狡噛」

 目を瞑った暗い闇の中で、狡噛は槙島の行動を反芻する。ますます槙島の行動原理が理解出来ない。と言うよりかは、理解したくないと言うほうが当たっている。

「――……ッ、」

 狡噛がようやく動けるようにまで回復したものの、いざ立ち上がってみても彼の重心はフラフラと定まらず、歩くこともままならない。そんな状態なうえに、折れた腕でこの崖を登るのは至難の業だ。
 けれど、今は独りではない。狡噛には認めたくないが認めざるを得ない男が側に居る。そして、狼という協力者もある。

「……お前にだけは借りを作りたくなかった」

 折れた腕を反対側の手で支えながらぼやく狡噛。

「……手、貸せよ。……槙島」

 槙島の声も、自然の音も、何も聞こえない状態で狡噛が頼るのは槙島。そう、狡噛には槙島しか居なかった。

「この貸しは高いよ?」

 散らかした荷物を纏めながら槙島が笑って言う。この貸しが後に返ってくるとは思っていないが、そんな言葉一つで気分が高揚するのだから、人はつくづく面白いと槙島は自分のことながら感心する。
 ふたりは荷物と岩場を土台にして、更に槙島の背の高さと肩を利用して這い上がる。人が窮地から生き延びようとする時、火事場の馬鹿力が発揮されるというのは、あながち嘘ではないらしい。
 実体験で証明されると、古くから言い伝えられる言葉が持つ意味を改めて深く賞嘆する。人の思いや言葉が綴られた多くの書物が現代まで残り続ける理由に気が付いたとき、人は更に成長ができるというものだ。




「僕の前で生き延びてみろよ、狡噛。僕がいつか君に牙を向けるその日まで、ね――」

 そして、狡噛を登らせた後、槙島もよじ登っていく。気配を消して、ひとりで来た道をふたりで戻っていく。
 この道が間違った道だと分かっていても――ふたりは共通の帰るべき居場所を思い浮かべていた。