01.甘蜜の牙




「――ッ、しませんからね…!」

 壁に背を盗られたトキヤがそう吐き捨てた。
 何故か今、彼は追い詰められていた。いや、捕らえられたと言った方が当たっているのだろう。
 腕も顎も封じられ、ドアへと通ずる逃げ道なども疾うに奪われてしまっている。

「強情だねぇ……、」

 目の前の金色ライオンが、そう言って眼光鋭く笑みを深めた。
 互いの呼吸音どころか捕食者の舌なめずりの音さえも暗がりの部屋に生々しく響いていく。べろり、と熱を帯びた舌に舐められているような錯覚に陥るほど二人は近く、流石にこの距離は居た堪れない。
 けれど、トキヤはもう手ぐすねを引かれる範囲に入ってしまっていた。解き放たれる色艶にその全身を以て飲み込まれているし、現に彼から一瞬も視線を逸らせないでいた。
 まさしくキスの一つでも講じるべく、隙を狙われているこの状況。待ちくたびれたと言わんばかりに背の高い方のオレンジ頭がずい、とトキヤの碧眼を覗き込んで、射貫く。

「…っ、――レン…ッ!」

 先に触れ合ったのは吐息。そして、額。辛うじて唇は触れ合わないものの、些とでも身動いでしまえば最後だろう。
 密度を増して触れ合う呼吸の擽ったさによって、内に秘めていた筈の欲情の弁が緩む様子も否応なしに伝わってくる。まるで時限爆弾を手荒に扱っているような、そんな冷ややかで妙に熱いそんな気分。
――私としたことが……。
 と、吐いた溜息に己への呆れを混ぜ込むことで幾らかの冷静さを取り戻す。しかし、それもこの腕が解かれない限り何度も振り出しに戻るのだ。解かっている。
 そうは言ってもこの二人(一緒くたに括るとトキヤは怒るだろうが)、この様な状況に陥った事は今が初めてではなかった。これが何度目であるかはもう覚えていないけれど。

 捕食者――レンを部屋へと招いたのはトキヤの方だった。
 その理由はきちんとある。勿論、この様な事態を味わう為でも何でもなければ、もっと真面目で、勤勉たる生徒の正当な理由。
 レンは実力(と言うよりは天性の才能だろう)を持ち合わせていながら真面目に授業やレッスンにも取り組まず、先生方をも悩ませていた。
 そのレンが漸く、提出課題や試験と真面目に向き合う気になったようで、その課題の一つにあった作詞のアドバイスが欲しいと、トキヤの元へ直々にお願いにきたのだ。

 トキヤは嬉しかった。単純に、同じ夢を目指す者として、彼が真面目になってくれたのだと喜び、そして二つ返事で引き受けた。
 同じクラスのよしみであったことも功を奏し、何より彼の性格も相俟って誠実に対応してくれているだけに過ぎない。まさかこうなるとは微塵も思わずに。
 しかし、何分唐突な申し出だった為に、レコーディング室は予約で一杯。教室でも済ませられただろうが、今日に限って人が大勢残っている始末だ。
 レンの真剣さを酌み取り、トキヤは出来る限り静かで二人きりになれる場所を求めて学園内を巡った。しかしながら共同生活の場である故に、無理不都合が出得ることも間々ある訳で。それがまさに運悪くも今日この日だった。

 そうこうしているうちに時は放課後を過ぎ、夕飯時に差し迫っていた。
 まさかここまで時間が掛かってしまうとは思っていなかっただろう。けれど時期が時期だ。
 卒業オーディションの準備が始まった所為も重なり、想像以上の立ち往生に互いの溜息が深くなった頃。丁度トキヤと寮で同室の音也から明朝まで不在になるとの連絡が入ったのだ。
 まるで何かを示し合わせたようなタイミングはライオンが牙を舐めるのとほぼ同時だった。





 そんな経緯を経て、二人はトキヤの部屋に居る訳で――。





「ふっ…まるで初なレディを見ているようでそそるねぇ…」
「………、冗談も好い加減にしてください。私だって怒りますよ、レン」
「ま、イッチーのそういう所もオレは好きだけど」

 日頃から当然の如く、周囲に女子生徒を侍らせているレンの口車には乗らない。
 真っ直ぐな瞳で踵を返せば、逆にレンの瞳は笑みの色味を更に濃くするばかりで、この状態は一向に改善されない。寧ろ、事態は悪化の速度を増しているだけのような気がするのだけれど。

 片腕は頭上にある。きっとそろそろ手首は赤みを帯びてきていることだろう。
 もう片方の腕は辛うじて拘束を免れたので、トキヤは目の前の胸板を押さえつけ、これ以上二人の間が縮まらないようにする。けれど今はそれが精一杯。
 体格差は然程無いと思っていたのだが、先に苦痛の色が滲み始めたのはトキヤの方。
 筋力の差が物を言った。

「――ンっ…、ん…っ……」
「…――ッ、んん…っ」

 レンはその一瞬を見逃さず、容赦なく唇が雨となり降り注ぐ。
 始めの一度目だけは噛み付くようなキスだったが、それ以後は触れ合うだけ。時折、啄ばむような甘い接吻を繰り返され、そうして翻弄されていく。
 これも、いつものこと。
 何時だってその手の上で踊らされるばかりだ。愛情の愛の字も見当たらないキス――、リップ音すら哀しいメロディとなり、漏れる吐息と共に消えていく。
 ひと時の夢のような、キス。激しくトキヤを飲み込んでいく。



「はぁ…ッ、――レン…!さっさとこの腕を離しなさい…!」
「嫌だね、離さない。折角イッチーと二人きりになれたって言うのに…どうして離さなきゃいけない?」

 息を吐く合間、ほんの数秒の間に顔を逸らすことで難を逃れることは出来た。
 しかしこれ以上は危険。このままなし崩しにずるずると堕落な行為へと流されてしまう。

 頭では身の危険を察知していると言うのに、何処か、何故か、名残惜しい。
 キスを止めてしまうことが、この距離を離してしまうことが、寂しい。
 多分、きっとその両方が正解なのだろうけれど。

 そんな感情がはたと芽生え、チクリチクリと胸を痛めつけてきたが、キスをされたことで逆に落ち着きを取り戻したトキヤには問答無用の情。
 馬鹿馬鹿しい浮ついた感情は文句で掻き消してしまう。トキヤのその姿も、レンには見慣れた光景に過ぎないのだけど。
 照れ隠しに似たそれや、甘んじてキスを受け止めてしまうこと、結局はいつもと何ら変わりがない。初めて交わしたあの日から何も成長していない。
 キスを交わせば交わす程、罪悪感に満ちた顔をする。またしてしまったと、後悔の色を酷く滲ませる。
 普段の凛とした涼しい表情からは想像も出来ないくらいに、あっさりと他人に心を読み取らせる。いや、相手がレンだからこそ見せているのかもしれないが。
 少なからずレンとのキスによって動揺ないし高揚に近い欲がちらつき始める事はほぼ間違いがないだろう。レンはそう確信しているようにしか見えなかった。

 そう、それを目に見える形で体現したトキヤの頬はうっすらと紅に染まっていて、色白によく映える。
 荒れた呼吸を整えようとした結果の狂った呼吸リズムが、逆に色気を引き出していることにトキヤともあろう男が如何して気が付かないものなのか。
 レンには甚だ不思議で仕方がなかった。まさかこれが初恋でもあるまいに。

 しかし、それはレンにとっても言えることだった。
 トキヤと交わす行為全てが、まるで初めての時のような感覚に陥るのだ。彼から放出される無意識な色香が媚薬となり、レンを夢中にさせていく。トキヤしか見えなくなる。
 あの軟派なレンがそうなってしまうくらいの存在。それが他の誰でもない、このトキヤただ一人。初めて心から愛しいと思えた人。

 ふい、と逸らされた瞳が、哀惜の情を訴えている。
 無意識なそれは、強引に心の奥に仕舞われた本心そのものだと理解出来るからもどかしい。もっと崩したい、そんな欲望に駆り立てられて我慢苦しい。
 それでも、リアリストの行動範囲は未だに狭いまま、本当の気持ちを平気な顔で押し殺す。夢へのしがらみが頭にちらついて、あと一歩が中々踏み出せずにいるのが現状だ。

「イッチー…、」

 すべての行動理由は解かっているが、認めたくないと言った方が正しい。
 どれだけ瞳を合わせないように意志を強く持っても、あの声で名を呼ばれれば自然と其方を見てしまう。目が合えばトキヤの顔色を窺い、そっと頬に触れてくる慈しむような柔らかい手つきは擽ったくて心地良い。
 嬉しいような嬉しくないようなぎこちない表情を浮かべるトキヤを目の前にして、彼とは裏腹にレンの瞳はいつにも況して情熱に燃えていた。
 女子を魅せていた上辺だけの熱情とは別の、違う何かが秘められている。例えるならそう、灼熱の想い。
 逸らせないくらいの強い眼差しがトキヤを捕えたまま、そしてそれは牙へと姿を変え、ゆっくりと確実にトキヤを追い詰めていく。
 甘い、甘い毒牙が白肌を這い、今にも全身を突き破って、胸に隠した想いごと食べられてしまいそうで。



苦しくなるくらい――この男が好きで仕方がない。



 と、思う。お互いに。いや、確実に想いは繋がっている。
 不器用なところは少し似ていた。思いを伝える術が下手だった。強引であったり、晩熟であったり。
 けれど、それはいずれも互いの未来を思っての足踏み。夢を思うなら殺さなければいけない感情ではあるが、今はそう簡単に射殺すことなんて出来そうにない。
 でも隠すのだ。トキヤは特に不器用で真っ直ぐだから。胸に抱いた想いや相手を大事にしたいからこそ、いつか噛み砕くことだろう。
 だからレンはそれを阻止する。こうして時折、悪戯のようにキスを仕掛けては胸に隠した愛に噛み付き、心の奥から引きずり出して温める。
 好きだから、大事にしたいから、繰り返す。逃げ場を奪ってまでも追い詰めて、心も体も離さない。


「…はぁ……、貴方は二人きりになれば見境がなくなると言うんですか?…これから、卒 業後は嫌でも共に仕事をこなしていくと言うのに、我慢の一つも出来ないでどうするんです」
「それはここを卒業してからの話だろ?今はまだ正式に事務所に所属した訳でもないんでね。…それまでの間、限られた自由を、オレはオレのしたいようにさせて貰うだけさ。… …二人きりの今だからこそ、ね…?」

 語尾は掠れるほどに甘蜜の声音。抱き締められた腕の中で囁かれる誘惑なそれには、思わず身悶えそうになった。
 狡い男だ。常々そう思っているトキヤとは裏腹に、清々しいまでの微笑みを浮かべ、髪や額へ口付けを落としていくレンは上品な獣。
 狙われたら最後とでも言うかのように、その腕は力強く抱き締めて逃がさない。
 きつく、きつく噛まれた牙から甘蜜に似た想いをたっぷりと注がれて、トキヤの身体を、心をもそれは侵していく。

「……だからとは言え、抱き締める必要性は微塵も感じませんが。…そもそも貴方が…… 、歌詞のことでアドバイスが欲しいと、…レンが言うから喜んで引き受けたのに……」
「それは本当さ、ぜひともイッチーに聴いて貰いたくてね」
「…では聴かせてください、この腕を離して、今すぐ」
「それがあと少し物足りないんだよなぁ…。だからイッチーからキスをしてくれたら何かピーンと閃くんじゃないかなと思ってね」
「なっ……冗談は結構ですから早く、」
「早く、――キスして?ねぇ…イッチー、オレとキスするのだって嫌いじゃないんだろ?抱き締められるのだってそうさ、嫌だ嫌だと言ってる割には随分と嬉しそうにココが喜んでる」

 そう言って、レンはトキヤの左胸を指差した。とびきりのウィンクも携えて。
 図星であるからこそ、どきりと、胸が鳴り止まない。
 トキヤも自身の想いを認めつつあるのだ。レンの行動力によって、熱い想いによって、その甘い誘惑に身を委ねてしまう日もきっとそう遠くはないのだろう。

「っ…レン!それ以上言うのであれば私は出ていきますよ…!」
「イッチー、否定しないんだね?」
「………っ、」

 もう、何も言えなくなってしまっていた。
 ここまで追い詰められていると言うのに、トキヤにあとどの選択肢が残っていると言うのだ。
 徐々に狭められていく逃げ道。否定も後戻りも、この場から逃げることも叶わない。いや、きっと体が動かない。

「ああそれとも…、自分からするのが恥ずかしいのかい?ふふ…まるでレディみたいだね、まったく…そんな顔するなよ、イッチー…もう我慢出来そうにない」
「ッ…、レン…、」
「だーかーら、そんな顔でオレを見るなって…トキヤ……ん…、」
「…んぅ…っ、」

 紅い顔を眺めているのも悪くない。
 もっとその顔が崩れていく様を眺めていたかったけれど、無言でねだるトキヤの唇はこれ以上待ってくれそうになかった。
 がぶり、と両頬を包み込まれるように押さえ込み、噛み付くような強引なキスは、激しいようで酷く優しいキスだった。
 きっと今までで一番愛の籠もったキス――沢山の“好き”を込めて。




「――ふ…っ、はぁ…。…顔…真っ赤にしちゃって可愛い…」
「れ、レンが…!貴方が…!あんなキスするから…ッ!」
「キスくらいで赤くなるんだったら、それ以上のことをしたらイッチーは溶けてしまうかもしれないね」
「…ッ!」
「…ははっ、冗談だよ。…っと、時間か…今日は部屋に戻るよ。曲の件はまた後日」

 流石にまずいと思ったのか、それとも本気でブレーキが壊れてしまいそうなのか、レンも珍しく色濃い幸せな溜息を吐いてその腕を漸く解放した。
 そしてここへ来て逃げるように退散しようとするレンの腕を、咄嗟に掴んだのはトキヤ。






「…キ、キスの続きをしましょう…?…レン……、」




 一晩掛けて二人を食べ尽くす想い――そして甘蜜の幸せな匂いが二人から香る朝ももうすぐ。






2011.10.23
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