小さな願いと密なる想い
始業のベルは未だ鳴らない。
「今日はきちんと起きたみたいですね」
授業前、早くから着席していたらしいトキヤが滑り込むようにやって来たレンの姿に笑う。
「ああ…はぁ、おはよ」
「お早うございます、レン。今日は間に合ってよかったですね」
「もちろんさ。早起きして授業にも遅刻しなかったらイッチーが願いを一つ叶えてくれるって言うんだ。昨日は失敗したけどオレはやる時はやる男だよ」
あまりにも遅刻癖の抜けないレンに痺れを切らした優等生トキヤが、そんな提案を持ちかけたのが一昨日の夕方の話。
先日のチャレンジには負けたレンだったが、押して掴んだ二回目のチャンス。今日はきちんと目を覚ましたようで(同室ペアの聖川さんには手助け無用と根回し済みだった)、レンの得意げな笑みが眩しく光る。
「ふふ、それで願いは何にしますか?」
隣の席に座り込んだレンに問う。
「何でもいいんだよね?」
「ええ、私に出来る範囲でですが…、好きなことをどうぞ?」
念を押すようにアイスブルーの瞳がトキヤを捉えている。
それに不思議そうにしながらも相槌を打ち、答えを催促する瞳が不安の色を少しだけ映す。
「好きなことねぇ……、本当に何でもいいんだったら、オレはイッチーの手に触りたい」
「……は…?」
願いと言えど、範囲は定めていなかったので何を言われるのだろうと内心ドキドキしていたトキヤだった。
しかし、返ってきた言葉は躊躇ってしまうような無理難題なんかではなく、もっと容易いささやかな願い。トキヤが拍子抜けしたのは言うまでもない。
そう、普段から触れ合う事を避けあっている二人だからこそ出てきた願いなのだろうと思う。
「いやね、イッチーの手はそこらのレディより綺麗な手をしているからさ。どんなものかと触ってみたくなってね。…どう?安い願いだろう?」
照れの混じった笑み。その笑顔に隠された真実があるかは分からない。
けれど、触れたいという気持ちが伝わってくる事は確かだ。
「…それは、まぁ…手くらい構いませんが……」
「じゃあ交渉成立」
「ええ。ではどうぞ」
特に他意もなく両手をレンの前へと差し出した。
女性のように整えられた爪、日焼けのしていない細長い指。この手がメロディを奏でたらさぞかし素敵に煌くのだろう。
そんな事を思いながら、レンはトキヤの手ではなく自分の手首を指差した。
「残念だけど、授業が始まってしまうからね。……お楽しみは取っておかなくちゃ」
女性相手ならまだしもウィンクされても困ります。
トキヤの瞳がそう強く訴えてきているが、レンは無視を決め込んで自席へと戻っていった。
心なしか足取りは軽い。浮かれている証拠のようにも受け取れる。
「…まったく……、」
今思い返せば、今日の放課後の予定は既にリサーチされていたと思う。
トキヤが抱えている仕事も進んで受けている特別レッスンも何もない日。所謂オフだ。
そして、今しがた新しく出来た予定。賭け事のように交わした約束。
その罰ゲームにもなり兼ねなかったご褒美である願いを叶えるための逢瀬は、今日の放課後へと持ち越されてしまった。
それは即ち、楽しみが先延ばしにされたと言うことだ。
触れたがっているのは何もレンだけではない、と早くそう気付いて欲しいのだけれど――、まだまだこの想いは密に温めておこうと思う。