ソプラノ



 降りしきる酷い雨の中、それは今にも潰えそうな"生"なる声を懸命に上げ続けていた。

「生きたい」と。

 か細く、声にもならない声を絞り出し、震える身体を破れ掛けた段ボールの屋根に守られながら、それは身を震わせて差し出される手を待っていた。
 雨粒が馴染んだ毛並みは、ぺったりと細い身体に張り付いている。色は黒と言うよりかは、少し藍のような濃い色をしていた。珍しい色、と言うのが印象だった。
 怯えや寒さからか瞳は閉じたまま、開ける素振りは一向にない。垂れ下がった耳は元気になればピンと立って音を拾うのだろう。とにかく小さかった。掌サイズくらいだろうか。
 生まれてまだそんなに日が経っていないようにも見え、推測に過ぎないが親の目にも会っていないのだろうと、砂月は思う。
 掌に乗せると、その子猫は怯えた眼差しを漸くこちらへと向け、そして忽ち恐怖に慄いた様子を見せた。震えがどの理由から成るものかは定かでなくなったが、寒い事も怖い事も多分、否、きっとどちらも間違いじゃない。

 このまま放っておくべきだろうか。これが神の下した子猫の運命なのかもしれない。
 そう思うと簡単に手を差し伸べてしまったことに少しの後悔のような思いも生まれたが、胸元に抱いた小さな命は懸命に生きようと鼓動を打っている。小さな口から少しの酸素を取り入れて、必死に生きようとしているのに―――。
 見捨てるなど出来ない。
 目で見て、手で触れて、"生"を体感した今、この子を雨曝しの下に戻す。そんな選択肢は、砂月がこの子を抱き上げた時点から疾うに掻き消されていた。

―――元気になるまで。

 そう心に決め、子猫を胸に抱いたまま砂月は家路を急いだ。





 部屋の室温は丁度良いだろうか。
 家に帰るなりそればかりが気になっていた。誰かを招くことなど滅多にないこの家はよく冷える。クロゼットの奥からヒーターを取り出そうかさえ悩んだくらいだ。
 雨に打たれれば体温は冷える。腕の中で幾らかは体温を取り戻したように感じたけれど、身体の芯はきっとまだ冷たいままだろう。
 バスタオルを手に取り、ふわりと包んでやった。これで少しは温まるはずだ。
 細めたままの目は何処に居るのかを必至に探しているようにも見える。不安げな表情は痛いくらいだ。居場所を二転三転して漸く落ち着いたとは言え、安心出来るかどうかは別の話だ。

 伸ばした手を戻し、砂月は宙を見た。
 触れる事は避けておこうと思った。小指よりも細い手足。触れれば壊してしまいそうで怖かった。ヴィオラとは違う繊細さがある。
 どうしたものか、砂月は項垂れた。生かしたいという気持ちが急いてしまい、自分でも笑ってしまう程の動揺振りだ。こんな体験は初めてだった。猫を拾うのもそう。抱いた親心(母性に近い)も然り、どれも砂月にとって擽ったい感情ばかりだ。

「……!」

 不意に猫が動いた。ピクリ、足先が跳ね、布の海を泳ぐ。
 まさか夢でも見ているのだろうか。そう思うととても優しい気持ちが芽生え、触れたい衝動のまま頭をつーと撫でてみた。
 するともう一度、ピクリと反応を示してきた。指先に頭を擦りつけ、そうして"安心"を告げているみたいで嬉しくなった。

「……ちっ」

 可愛いと思った。
 だから舌打ちをした。猫相手に気を緩ませている自分への叱咤も込めている。気付けば緩んでいた頬を叩く。馬鹿馬鹿しいと嘲笑を零した。
 飼うと決めて連れて来た訳ではないのだ。飼うつもりはない。そう強く思い噛み締めながら、改めて猫と向き合う。

 (お前はどうしたい?)

 問い掛けたところで返事がある筈もない。仮に言葉が返ってきたとしたらどれだけ愛着が湧くかも分からない。
 無駄な考えは止めておこう。砂月は触れた手を戻し、側を離れた。

 砂月は一晩様子を見ることにした。下手に構い過ぎるのも酷だと思ったからだ。
 体力が回復したら里親を探しに行こう。そう思いながら、砂月は作業に没頭することにした。

 作業机に向かう背中から聞こえてくるのは小さな声。にゃあと、可愛い声を聞かせる猫にも意思はあるのだろうか。可愛い声だな、と思いつつ、猫の方には目もくれず、砂月は作曲作業に熱を入れた。


 それが夢の始まりとも気付かずに―――――。





2014.04.12
音大生砂月と猫のお話。のんびり更新していけたらいいなと。
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