夕闇の雨傘
「雨の日はあまり好きじゃないんです」
それは突然のことだった。
「どうして?」
トキヤの向かい側で雑誌を読んでいたレンが、その声にそっと顔を上げる。
「いえ…特に意味はないんですが…。もし仮に晴れていれば待ち時間に外へ行くことが出来るでしょう?例えほんの少しの時間だとしても私には窮屈な世界を抜け
出せる唯一のチャンス…些細な癒しなんです」
「癒し、か……」
窓の外から聞こえてくる雨音は本降りの兆し。
生憎今日のスケジュールは雑誌の取材や撮影と室内に篭もりっ放しだ。
何事にも一生懸命、完璧にこなしてみせるトキヤだが気を張り続けるには限界がある。
勿論大好きなレンが側に居る事でその窮屈さは和らいでいるものの、完全とは言い難い。
今のように楽屋に二人きりであれば外に出たいとは思わないが、いつ誰がやって来るか分からないからこそ気が休めない。
二人きりでも触れ合う事も叶わない。
だから、トキヤは雨の日があまり好きじゃなかった。
「…いっそ駆け落ちでもしてみる?」
思いつくままと言うよりは割と本気の眼差しがトキヤを試す。
「え………」
思ってもいなかった言葉。強い瞳から視線を逸らす事が出来ず、トキヤが珍しく動揺の色を見せた。
「…はは、冗談だよ」
そう言ってレンがトキヤの頭をぽんぽんと撫でる。悪戯な笑みを浮かべて。
「…ッ、……」
甘んじてレンからのそれを受け入れていたトキヤが咄嗟に彼の腕を掴んだ。
そして――、トキヤはレンに口付けていた。
「ん…っ……」
予想外のキスは瞳を開けたまま受け止めたレン。
一瞬だけ止めるべきかとも思ったが、最愛を目の前にしてブレーキが掛かる訳がない。
「…っふ……」
まるで絹糸を扱うように指先に髪を絡ませてトキヤを引き寄せる。
触れ合うだけの口吻は深いものへと変わり、二人の勢いはもう止まらない。本当は今すぐにでも止めるべきなのだが。
ドアを背にして交わす仕事場でのキス。雨の日でなければ絶対に起き得ない事態に、少しの心配を垣間見せつつレンの方から唇を離した。
満足感と一緒に満ちる背徳感が二人の頬を紅に染めていく。
「……っ、すみません…こんな、急に……私とした事が…………」
「ごめんは要らない。…どう?少しは気が楽になったかい?」
「…ええ、すごく」
「なら良かった」
窓の外で降りだした雨は止みそうにない。
けれど、雨傘はレンの手。いや、口吻。それともレン全てだろうか。
トキヤの心に降りだした雨は静かに止み、うっすらと晴れ間が見えてくる。まるでレンの笑顔が太陽のように。
「………本当に、レンには敵いませんね……」
嘲りと照れの混じった笑みを浮かべるトキヤが、そっとレンの肩に頭を預けた。
少しだけ。それは本当に少しだけ、時限のある二人の密度がトキヤの雨を晴らしていく。憂鬱な気持ちも疲れも、全てを浄化していく。
「…次の休みは少し遠くに出かけてみようか」
「ふふ、デートのお誘いですか?」
「もちろん、他に誰を誘えって言うんだい?」
「愚問ですね。デートに誘って良いのは私だけに決まってます」
そうして、ひっそりと静まる楽屋。互いの呼吸音と、時計がチクタクと時を刻む音が安堵に変わり始める。
( ああ、早く雨が止まないかな。 )
窓から見える灰色の景色に一瞥して、レンは時間が許す限りトキヤをきつくきつく抱き締め続けた。
彼の雨が晴れるなら、いくらでも雨傘の代わりにだってなる。
レンの腕の強さがそう物語っていた。それはとても幸せなひと時だった。
例え天気が心に影を作ろうとも、二人なら乗り越えられる。レンが居るなら、この窮屈な篭庭世界(芸能界)でもやっていける。
そう腕の中で強く感じながら、トキヤは暫しの雨凌ぎにそっと瞳を閉じたのだった。